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講師コラム:山本 勝義 先生


グローバルビジネスのすすめ


コラムへのご意見、ご感想がありましたら、こちらまでお願いします。




第10回 中国ビジネスで思ふこと



 いよいよこのコラムも最終回になりました。私が中国ビジネスに関わるようになったのが2002年ですから、今年でちょうど10年になります。最初は出張ベース、そのあと駐在し、今は行ったり来たりして中国を見てきました。一言で言えば、中国のこの10年の発展はまさに「昇龍」のごとしです。

 製薬業界も同じく大きく成長しました。法規やガイドラインもちょこちょこかわって企業側の対応は大変でしたが、国内、外資、そして日系企業は苦悩しながらも大きく成長しました。また、張江バイオパークのようにバイオベンチャーも定着してきて、これからの10年は中国が世界の研究開発基地と成りうる可能性を秘めています。そういう意味で中国バイオ産業は目が離せません。

 この10年の私の経験、体験を振り返るといろいろなことがありました。もちろん、会社勤めを辞め、独立して会社を始めたこともそうですが、中国に焦点を当てたビジネスコンサルティングというものが奥深いと感じています。中国ビジネスはとにかくアイデアと中国パートナーがあれば成功する確率は高いのは間違いありません。個人でスタートしてあっという間に大企業、上場企業になってしまう事例は山ほどあります。私もその仲間入りをしたいと日々、闘っています。

 私はセミナーや社内講演で呼ばれて中国ビジネスの話をする時に必ず伝えることにしていることがあります。それは中国ビジネスで成功するためには「中国に興味を持て」です。とにかく中国という国、人、言葉、文化は奥深い。だからちょっとやそっとで中国ビジネスがうまく行くわけがない。中国のいろいろな面で関心を持ち、興味を持ち、人々と接し、体感することが成功の大道だと感じています。

 会社であれば中国事業担当者だけでなく、関連する部門の人、幹部、当然、経営トップ自らが現地に足を踏み入れ、接することが大事だと思うのです。報告書を読んだり、会議の席でいくら担当者から詳細な報告を受け、資料を見ても、現場を知らない人は理解できない、したがって、決断もできない、という状況になる訳です。また、意思決定が早くできるかどうかも大きな鍵を握ることは言うまでもありません。中国企業の方からよく「日本の会社はいつまで経っても何も決まらない」と言われます。欧米の会社は意思決定が早いです。大きな問題があれば徹底的に調べ、解決策を模索し、対策を出しますが、細かいところは驚くほど気にしない。日本の場合は大きなところ、小さなところ、すべて完全に解決しなければ物事がスタートしない。人によってはこれが日本企業の良さであり、強みだと言いますが、これは中国では通用しません。

 私も、製薬企業だけでなく中小企業、また個人事業の方々と交流が増えて自分自身、もっといろいろと勉強しなければいけないと思っています。新しいことを勉強するのはつらいし大変ですが、興味も同時に芽生えて老化防止にもなりそうです。

 最後に全10回という長いコラムにお付き合い頂いた読者の方々、本当にありがとうございました。



【中国のお勧めスポット⑩陽澄湖(Yangchenghu)】
 陽澄湖(Yangchenghu)はご存知のとおり、江蘇省蘇州市に位置する淡水湖で上海ガニの産地です。本当は「チュウゴクモクズガニ」と言うそうですが、普通は上海ガニが一般的で「大閘蟹」と呼ばれることも多いですね。上海から高速で1時間もあれば湖のほとりに着きます。 

 上海ガニはこの陽澄湖でとれたものだけを言いますが、最近は海外でも有名になり、高値で取り引きされるため、別の産地で育ったものを、陽澄湖で養殖するという偽物も出回っています。本物の陽澄湖のカニはさみにタグが付いています。

 上海人に聞くと昔はバケツ一杯、家族で食べていたというくらいでそれほど高くはなかったそうですが、今や高級食材になってしまいました。日本人には食べ方が難しいですがカニ味噌の味は格別です。



 






第9回 中国企業の急成長の秘密と海外進出



9.1 はじめに
 中国は改革開放以降、外国企業の資本と技術を導入し、目覚しい経済発展を遂げました。13億人という圧倒的な人口とその潜在市場は他の追従を許さず、あらゆる分野で消費大国となりました。中国企業も国営から民営化が進み、また外国企業との合弁事業も積極的に進めてきた結果、世界規模の企業が次々と誕生しました。また、国内・海外証券市場へ上場する企業も後を絶ちません。リーマンショック以降の日米欧の景気低迷により、その速度が加速しているようにも見えます。海外進出や海外での企業買収も急速に広まっているのはご存知のことでしょう。

 政府系の企業だけでなく、ハイアールなど民間企業も積極的な海外進出、海外拠点の構築行なっています。日本でも電器小売最大手の蘇寧電器がラオックスを買収するなど、日本への進出も活発化しています。それではこのような中国企業の急成長の秘密と海外進出の背景はどのようなものなのか、成長の背景と海外進出について私の見方をご紹介します。

9.2 中国製薬企業急成長の秘密
 中国製薬企業の成長要因はやはり、経済発展にあると言ってよいでしょう。1978年の改革開放政策を契機に経済成長が始り、医薬品産業も急速に発展しました。経済成長に伴って国民の所得が増え、その結果、医療費の支出も増えたのです。当初は比較的簡単に参入できる抗生物質製造メーカーが乱立し、医薬品市場を一大産業に変貌させました。国民が生活の豊かさを感じた後、関心事はやはり健康・病気へ移るという先進国が歩んできた路を辿ったのです。このような国内医薬品企業の急成長、市場の急成長の波に乗り、1980年代から外国企業も中国進出が相次いだのは既に触れたとおりです。その後、国内情勢により進出は停滞しましたが、2001年のWTO加盟による市場開放が進み、日系、外資系企業の中国進出が再びブームとなっているわけです。

 製薬企業の成長と共に関連企業の成長も確実に成長しています。まず、研究開発・登録申請を支援するCRO産業、医薬品の流通を担う医薬品卸も国内企業が元気です。中国のCROが目立ち始めたのは2001年頃からでしょうか。それまでは政府系機関が外国企業の開発業務をサポートしていましたが、WTO加盟をきっかけに独立した民間CROがぞくぞく誕生しました。その市場も日本のそれに近づいてきております。日本を含む世界トップレベルのCROも中国へ参入していますが、国内系CROの急成長が群を抜いています。これは中国のビジネス習慣を熟知している点、医療機関や政府機関との信頼関係が構築されているからで、外国系企業は遅れをとっているのは否めません。

 また、流通を担う卸企業も大々的な政府政策により大き大規模化が進んでいます。卸については政府政策として明確に「世界に通用する卸を2~3社、育成する」と公表しています。その効果は既に現れつつあり、卸大手の2社、上海医薬集団と国約集団が立て続けに香港メインボードに上場を果たしました。

 日本へは三九企業集団が進出し、話題を集めましたが、今後、製薬関連企業の海外進出、日本進出も活発になることでしょう。

9.3 中国企業の海外進出の背景
 中国企業の海外進出の背景にあるのは潤沢な資金力と逞しさによるところが大きいと思います。そして何より、中国政府の積極的な推進政策により、中国企業の海外進出「走出去」戦略が着実に進んでいるのです。

 最近では天然資源関連の企業の海外進出が目立ちます。石油、鉄鋼、非鉄金属です。中国石油天然気集団公司(ペトロチャイナ)や中国石油化工集団公司(シノペック)が良い例です。今後は中小企業も海外進出に積極的に取り組むとみられています。そして製薬企業も日本への進出、M&Aという事例が増えてくると考えられます。この場合は新薬、研究開発ノウハウ、品質管理ノウハウ、そして日本での基盤を求める場合が多いでしょう。

 ただ、その一方で海外進出した企業で成功している企業はまだ少ないと言われています。その理由はいろいろありますが、最大の問題は海外事業・企業のマネジメントができる人材が少ないのと、ビジネス習慣の違いによるものが大きいようです。さらに、中国企業の海外進出がまずありきで、明確な進出目標を持たずに海外進出というパターンもあります。

 いろいろと課題を抱える中国企業の海外進出ですが、日本の製薬企業にとっては事業提携のチャンスでもあると考えています。確かにハードルは決して低くはないと思いますが、日本の企業で中国進出をしたくてもパートナーに恵まれず、中国事業ができない会社にとって絶好の機会とも言えます。



【中国のお勧めスポット⑨黄山(Huangshan)】
 黄山(Huangshan)は安徽省にある名峰で江西省の、四川省の峨眉山と並んで中国三大名峰と言われている美しい山です。伝説の仙境(仙人が住む世界)を彷彿させる独特の景観から、古代から「黄山を見ずして、山を見たというなかれ」と言われるくらい神秘で美しい景勝地です。

 黄山に立ち並ぶ山々は古代にできたもので、岩や石は長い間、氷河や風雨によって浸食され、現在の断崖絶壁の景観ができたそうです。

 中国の名峰を一度、ご覧になるといいと思います。



 





第8回 中国ヘルスケア市場の成長と要因



8.1 はじめに
 中国はその経済成長と共に国民の所得が伸び、経済的に豊かになっているのはご存知のとおりです。特に北京、上海、広州などのGDPの高い地域では人々の生活の質(Quality of Life)が向上し、健康で安全かつ良質な生活に対する関心は高く、医薬品、化粧品、健康食品、生活用品の選択、購入に大きな影響を与えています。

  一方、相次ぐ国内メーカーの医薬品、健康食品、一般食品の不良品による被害により、消費者は安全、信頼、高品質な製品に対する志向が強いようです。日本の化粧品、健康食品、生活雑貨が抜群の信頼を獲得しているのもその表れでしょう。

 中国のヘルスケア市場をみると、たとえば医薬品3兆円、医療機器1.5兆円、化粧品2.5兆円といずれも2ケタ成長を驀進しています。これらの数字は日本の市場に比べても既に1/2程度にまで肉薄しており、5年後には同じ水準、または追い越してしまうと見られています。

 国民の安全、安心、健康に対する意識はますます高まり、また低所得者層も所得が上がるにつれて健康志向が高くなるので中国のヘルスケア産業は今後一層の成長が期待されるわけです。


8.2 医療保険制度とヘルスケア産業との関係
 中国の医療費は所得に比べ、とても高いと言われます。医療について「看病難・看病貴、すなわち医者にかかることは困難で医療費が高い 」とよく聞きます。それでも大都市の3級クラスの病院に行くと早朝から患者が診察窓口にあふれているのも事実です。ここにも都市部と農村の格差が見られます。

 中国の医療保険制度は日本と異なり、都市と農村でそれぞれシステムが異なります。それぞれの主要な医療保険制度は「都市従業員基本医療保障制度」と「新型農村合作医療制度」です。都市型の方は従業員と会社が月々の給与から一定の割合で保険料を拠出し、個人口座と保険基金に充てられます。そして従業員が病院にかかった場合はまず、個人口座(個人持ち分)から支払われ、後で償還されます。入院などの高額医療を受けた場合は基金の方から支払われます。一方、新型農村の方は農民が対象で中央政府、地方政府、農民が保険料を一定額拠出して個人口座とします。病院にかかるとこの口座から医療費が支払われる仕組みです。

 この2つの保険の加入者は政府指導もあり、この数年で飛躍的に増えました。新型農村の方は加入率が90%を超えているようです。これは政府衛生改革の1つの柱である医療サービスの浸透と格差是正の成果と言えます。

 ただ、保険でカバーできる医療費は限られており、それが前述の「看病難・患病貴」につながっていることは否めません。そこで政府はさらなる医療サービスの向上を目指した政策や医療費の中心となる医薬品の基本薬物リストの改正を行っています。

 一方、消費者は出来るだけ自分で健康を維持する、またはセルフメディケーションを行うという傾向が強くなっています。そのため、健康器具や健康食品などの健康関連市場も大きく成長しています。また、病人や老人の介護施設や介護グッズのニーズが高まり、様々なサービスや製品が市場を賑わしています。


8.3 将来性のあるヘルスケアビジネス
 中国では医療費が高く、庶民や低所得者層が病院にかかるのはたいへんだということは述べました。その一方で裕福層はより質の良い医療サービスを求める傾向にあります。

 最近、中国では「医療観光ツアー」なるものが注目されています。海外で健康診断や治療を受け、同時に観光や買い物をしてくるというものです。この医療観光ツアーというのは新しいビジネスではなく、既にアジア諸国でも定着しています。医療観光の世界の市場規模は600億ドル(2006年)→1000億ドル(2012年)と急成長しています。中国の医療診断技術や治療法は日本や欧米のレベルに近づいているものの、最先端の診断技術や治療は未だ普及していない場合もあり、このようなツアーが好まれるわけです。

 利用する人は当然、富裕層が多く、この層は健康・安心・安全の意識が高く、外国の医薬・医療を好む傾向にあります。行き先としてはシンガポールや韓国が多いですが、日本も自治体を中心に様々な医療観光ツアーを企画しているところが増えました。 自治体のもくろみは中国人旅行客の来訪により、地域が活性化されるからです。例えば、ホテル、特産物、観光地の売上増加が見込めることや地方レベルでの日中交流により、地場産業の中国ビジネスの機会が増えるといったことが挙げられます。

 今後、このような新しいヘルスケアビジネスが登場するのも十分あり得ます。


【中国のお勧めスポット⑧ 秦皇島(Qinhuangdao)】
 秦皇島(しんこうとう)は中国河北省に位置する地級の都市です。著名な高級避暑地「北戴河(Beidaihe)や観光地「山海関」があります。

 北戴河の蓮蓬山には秦の始皇帝や歴代帝王が巡視した碣石があり、市名の由来となっています。 1381年(洪武14年)には朱元璋が万里の長城の東端となる山海関城を建築しました。山海関の東城門は「天下第一関」と呼ばれています。

 清朝の1898年(光緒23年)には秦皇島港が開港し、鉄道も開通するなど整備が進められ、北戴河は清朝時代に避暑地として公認されました。北戴河は中国共産党幹部の高級避暑地として有名になり、夏になると北京や周辺から多くの観光客が訪れ、風光明媚な海岸で海水を楽しみます。


 






第7回 日系・外資系製薬の中国戦略



7.1 はじめに
 第4回で述べたように、中国は1978年の改革開放政策から驚異的な経済成長を遂げました。中国医薬品産業もこの波に乗って今日まで安定した成長を続けています。1970年代の業界を振り返るとそのほとんどが国内資本の会社で抗生物質を中心に販売していました。医薬品の生産高も2ケタ成長を継続しています。

 その成長要因は間違いなく経済成長に伴って国民の所得が増え、医療費の支出が可能となったことに起因しています。このような医薬品市場の急激な成長とその勢いに押されるように1980年代から外国企業も中国進出が相次ぎました。その後、国内事情により、進出速度は停滞したものの、2001年のWTO加盟による市場開放が進み、日系、外資系企業の中国進出が再びブームとなっているのです。

 現在、中国医薬品市場で上位を占める欧米企業は、アストラゼネカ、バイエル・シェーリング、ファイザー、ロッシュ、サノフィ・アベンティス、日系企業で言えばアステラス、エーザイ、大塚、第一三共、大日本住友です。日系を含む外資系企業は企業全体の成長率は数%ですが、各社の中国事業はいずれも30%を超える年成長率を達成しています。

 これらの外資系企業はここ数年、さらなる中国への投資を強めており、研究開発センターの設立、企業買収、事業提携、3級クラスの医院との研究開発連携など積極的に進めています。次章では日系および欧米系の製薬企業の具体的な中国戦略について見ていきます。


7.2 日系企業の中国戦略
 日系企業の中国進出は1981年に大塚製薬、その7年後の1998年に協和醗酵が続きます。この頃の日系企業はチャイナリスクが台頭し、ほとんどの企業が中国進出に腰が引けていました。ところが、日本市場の成長の鈍化、それとは逆に中国市場の急成長を目の当たりにして各社の中国進出が相次ぎました。

 1990年代に入り、田辺製薬(現、田辺三菱)、ミドリ十字(現、田辺三菱)、山之内製薬(現、アステラス製薬)、武田薬品、第一製薬(現、第一三共)、中外製薬、エーザイが次々と中国事業に乗り出しました。その流れは今でも続き、あるいは加速しており、進出企業は大幅な事業拡大、未進出の会社も中国事業に積極的にチャレンジしています。

 先発組の中国戦略をみると、大塚製薬や武田薬品は持ち株会社の機能をもつ投資性公司を設立し、子会社の事業展開の自由度を高めようとしています。その大きなメリットは貿易権にあります。エーザイやアステラスも医薬品卸の許認可を取得し、製品パイプラインの拡大につなげようとしており、今後、ライセンス製品の販売も視野に入れています。

 一方、日系卸もメディパル、アルフレッサ、スズケンのビッグ3が中国卸と提携し、合弁会社を立ち上げました。最新の物流管理ノウハウを武器にパートナー企業の医療機関とのパイプを利用し、ウィンウィンの関係が構築できるかが鍵を握るでしょう。

 日系製薬企業の中国進出は欧米企業に比べ、決して遅れを取ったわけではありませんが、欧米企業に比べるとその成長スピードが遅いようです。その理由として筆者は日系企業は中国特有の市場性、商習慣、複雑な法規制、カントリーリスクへの迅速な対応が十分に取れていないと見ています。欧米のグローバル企業は数百億円規模の投資だけでなく、製品パイプライン投入、医療機関との提携に積極的でかつ意思決定のスピードが速いです。また、トップマネジメントに中国人を起用するなど企業運営や商習慣の違いにもうまく対応できるシステムを構築しています。

 日系企業も様々なケースで迅速な意思決定と各方面での現地企業や各種機関とのパートナーシップをうまく構築できるかが今後の課題と言えます。


7.3 欧米企業の中国戦略
 中国における売上上位の欧米企業は既に600~700億円規模に達しています。筆者が上海駐在を始めた2003年頃に比べ、この7年で約5倍の成長を遂げました。

 その代表的な企業の1つはアストラ・ゼネカです。同社は1980年代に中国に進出し、売上トップグループを形成していますが、これは現地子会社の販売部門の強さに負うところが大きいと言えます。現地子会社の機能を着々と整備していき、現在、約2800名の従業員を抱えています。巨大で多様な中国市場ですが、ほぼ全国をカバーできる営業体制を整え、事業展開を図っていて、抗がん剤の「イレッサ」だけで約100億円の売り上げがあるとのことです。

 バイエル・シェーリングも精力的に営業活動をしており、糖尿病治療薬「グルコバイ」は中国における同社のトップ商品となっています。中国における潜在的な糖尿患者は数千万人と言われており、今後、診断技術の浸透、高齢化や肥満の進行を背景に同医薬品の成長が見込まれています。

 中国事業において欧米企業が日系企業と大きく異なる点は意思決定のスピードにあります。また、経営トップを含め、経営幹部自ら現地に張り付き、提携製薬企業やCRO、また医療機関や政府関係部門との関係構築に精力的に取り組んでいます。中国事業は現地子会社任せではうまく行きません。本社や経営トップの全面的なバックアップがあって初めて成功を手に入れることが出来ます。欧米企業の中国戦略をまとめると次のようになります。

 ①中国市場を熟知し、人、企業、各機関とのパートナーシップを構築する。
 ②緻密な市場戦略や製品戦略、投資戦略を構築する。
 ③事業段階やニーズに応じた事業提携戦略 を活用する。
 ④プロの中国事業従事者を育成する。
 ⑤迅速な意思決定をする 。

 中国進出を果たした日系製薬企業はすでに100社以上に上り、さらに増え続けると見られていますが、欧米企業のように中国戦略を検証し、思い切った政策ができるかどうかが勝ち組への大事なファクターと言えます。


【中国のお勧めスポット⑦九寨溝(Jiuzhaigou)】
 九寨溝は四川省北部のアバ・チベット族チャン族自治州九寨溝県という所にある自然保護区で、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録されています。

 九寨溝は石灰岩質からなるカルスト地形にある淡水の湖水地帯です。そこには我を忘れるほどの美しい青い水が漂っています。これは水中に溶け込んでいる石灰分(炭酸カルシウム)の影響であるとか、湖底の苔によるとか、光の屈折率によるものとか言われています。

 中国では最も美しい観光地の1つとして近年、注目されています。シーズンは4月中旬から11月初めまでですが、5月と10月の連休には大勢の観光客で大混雑します。でもこの神秘的な水の輝きは必見の価値があります。

 




第6回 中国合弁企業第一号「中国大塚製薬」に学ぶ



6.1 はじめに
 中国は1978年の改革開放政策を契機に経済成長が始り、医薬品産業も急速に発展しました。 経済成長に伴って国民の所得が増し、結果、医療費の支出も増え、抗生物質を始めとする医薬品市場も目覚ましい成長を遂げたわけです。国内医薬品企業の発展の波に乗り、1980年代から外国企業も相次いで中国に進出しました。

 その先陣を切ったのが大塚製薬です。1981年、中国医薬工業司との合弁で天津に中国大塚製薬有限公司を設立したのです。その後、国内情勢不安により外国企業の進出は停滞しましたが、2001年のWTO加盟による市場開放が進み、日系、外資系企業の中国進出が再び活発になりました。

 一方、中国特有の市場性、商習慣、複雑な法規制、カントリーリスクなどにより、進出企業は必ずしもすべてが成功しているわけではありません。そこでこのコラムでは日系製薬企業が中国で成功する要因について中国大塚製薬の例を参考にして述べてみます。


6.2 中国企業とのパートナーシップ
 中国ビジネスを語る上でよく「チャイナリスク」と言われますが、医薬品の場合はとりわけ、法規制が複雑多岐にわたり、頻繁に改正されたりで担当者泣かせです。この10年間に数多くの法律、ガイドライン、規則、規定が交付され、現場での運用面で食い違いが見られたりすることもしばしばあります。

 このような医薬品ビジネスを取り巻く法規制は基本概念を理解することは大切ですが、何よりも相手(官庁または役人)の考え方をよく把握することが重要です。法律があっても結局、それを管理、運用するのは役人ですから、微妙な意見の相違がみられるのは仕方がないことかもしれません。結局、コミュニケーションや相互に理解し会える関係構築が大事になってきます。

 また、事業を推進する上で商習慣の違いに遭遇することもしばしばあります。これは単に言語の違いではなく、価値観、人生観など思考の違いによるところが大きいと思います。このような違いは日本人では対応できない場面も多く見られます。このような点から中国で事業展開する上で中国独特の商習慣を身に付けた良き中国人パートナー、良き中国企業パートナーは不可欠と言えます。

 中国大塚製薬の合弁相手は中国医薬工司ですが、中国医薬集団の子会社にあたります。この会社は国有企業ですが、中国の医薬品卸企業としてトップの座にあり、子会社の1つ国薬集団は香港市場に上場しています。このような有力な事業パートナーの協力は事業を進める上で計り知れない支援者となります。政府関係、医療機関、KOLなど強固な絆を有する中国企業とのパートナーシップは事業を推進する上で強い見方となるわけです。


6.3 事業成功シナリオ
 中国大塚は設立以降、経営トップを含め、経営幹部自ら現地に張り付き、また関係部門の全面的なバックアップをして軌道に乗せて行きました。また、工場増設や現地スタッフ育成も精力的に取り組んできました。これらのプロセスを参考にすれば、このような戦略をまとめると次のようになります。

  ① 中国市場を熟知し、人、企業、各機関とのパートナーシップを構築する。
  ② 緻密な市場戦略や製品戦略、投資戦略を構築する。
  ③ 事業段階やニーズに応じた事業提携戦略 を活用する。
  ④ プロの中国事業従事者(日本人・中国人)を育成する。
  ⑤ 迅速な意思決定をする 。

ということになります。中国進出を果たした日系製薬企業はすでに50社以上に上りますが、医療改革などを踏まえるとこれからの5~10年が成功か失敗かの分かれ道となる最も重要な時期になると言えます。


【中国のお勧めスポット⑥桂林(Guilin)】
 桂林は中華人民共和国広西チワン族自治区に位置する地級市です。カルスト地形でタワーカルストが林立し、絵のように美しい風景に恵まれ、世界的な観光地として知られています。また山水画と言えば桂林というくらいに風情のある光景が広がっている街です。 著名な英国のカルスト地形学者スウィーティングがこの地を訪れた際、もしもここの石灰岩地形が最初に研究されていたなら、カルストに代わってグイリン(桂林)という語が生まれていたことだろう、と語ったそうです。 お勧めはやはり定番の「漓江川下り」です。蛇行する川はきれいで澄んだ水が漂い、その両岸にそびえる山々は正に山水画そのものです。自然の美しさと独特の文化を味わえる桂林、一度は訪れてみてください。

 






第5回 [ 研究開発は張江にあり ]



5.1 はじめに
 上海は長江(揚子江)の支流である黄浦江という川を挟んで西側地区が浦西(プーシー)、東側地区が浦東(プートン)と呼ばれています。最初に開発されたのは浦西の方で虹橋を始めとして外国企業や外国人居住区が集中しています。一方、浦東の方は1980年以前は何もない地区でしたが、改革開放政策の波に乗って、浦東新区・開発区として目覚ましい発展を遂げました。今では世界的な銀行、証券会社がこの地に進出し、一大金融センターを形成しています。

 また、開発区は中央政府と上海市政府が協力してITとバイオ産業に力を入れ、世界的な企業の誘致に成功しました。ここには製薬会社だけでなく、バイオベンチャー、CRO、CMO、国家研究機関なども集まり、一大バイオ産業基地を形成しており、張江ファーマバレー(張江葯谷)とも呼ばれています。ここは中央政府のバイオ産業育成政策の中心と言ってもいいでしょう。


5.2 張江ファーマバレー
 中央政府は各地の地方政府と協力してバイオ産業促進政策の一環として全国22か所に国家生物産業基地を設立し、国内・海外のバイオ産業の誘致、育成、支援、優遇措置を講じています。その代表とも言えるのが上海の「張江バイオパーク」です。ここには創業または創業間もないバイオベンチャーのためのインキュベーションセンター(孵化中心)、化合物製造、基礎試験、臨床試験を受託するCROがあり、ベンチャーや製薬企業に幅広いサービスを提供しています。

 ベンチャー企業は既に約120社にのぼります。同地区内には上海交通大学、復旦大学、中国科学院上海薬物研究所などがあり、企業、大学、研究機関、ベンチャー企業間の連携が容易に行える環境が整備されているわけです。

 このような政府のバイオ産業インフラ整備や政府支援政策を好機と捉え、多くの欧米製薬企業がこぞってこの地に進出し新しい研究開発センターを設立、あるいは機能強化を図っています(参考図)。

 中央政府はさらに2009年には医薬業界の発展を奨励する政策を打ち出しました。国内バイオ産業を支援し、世界バイオ科学技術革命と産業革命のビジネスチャンスを掴むことを提言しています。具体的には、

  ○バイオ産業を中国のハイテク分野の支柱産業になるように育成する。

  ○バイオ関連医薬、農業、エネルギー、製造、環境保護産業を重点として、
    現代バイオ産業の発展に大いに貢献すること

  ○バイオ医薬産業などの発展の重点として、
    7つの分野からバイオ産業の発展に注力すること。

 特に遺伝子組替え生物新品種の創出、大型新薬の研究・開発、及びエイズ、ウイルス肝炎など深刻な伝染病の予防・治療を推進するとしています。 このようなバイオ産業育成には優秀な研究者の確保は欠かせませんが、政府は研究者の育成や海外から招聘する政策も奨励しています。特に張江ファーマバレーはバイオベンチャーや外国製薬企業の研究開発センターが数多く集まっており、国内の人材だけでなく、海外に留学し最先端の技術を身に付けた海外流出人材のの誘致を活発に行っています。


参考図



5.3 期待される張江発グローバル新薬
 張江ファーマバレーは前項で述べたように海外の優れた人材の招聘、また彼らが身に付けた能力を十分に発揮できるクラスターの整備など、R&D活動の場としての魅力を向上させています。

 日本はどうかというと政府がバイオ産業育成政策を打ってはいるものの、十分ではなく、また実行性に欠けるため、優秀な研究者が海外に流出してしまうなど、政策面で国際化への対応が遅れをとっていると言わざるをえません。それとは対照的に中国はその目覚ましい経済成長と並行して研究開発インフラは飛躍的に向上しています。2000年代にファイザー、GSK、ノバルティスなどを始めとする欧米製薬企業が日本を諦め、中国やシンガポールなどに研究開発拠点を設立した背景にはこのような優秀な研究者を呼び込むなどの政策面での差が大きいと言われています。

   張江ファーマバレーから生まれた新規化合物は臨床フェーズに入っているものも数多くあり、中国、しかも張江発の新薬が世界市場に登場するのもそう遠くはないと思います。


【 中国のお勧めスポット⑤海南島三亜 (Sanya)】
 海南島(Hainan dao)は南シナ海北部に位置する中華人民共和国最大の島です。亜熱帯性気候で、古来から黎族(リー族)、苗族(ミャオ族)、壮族(チワン族)など少数民族が住んでいましたが、1988年に海南省になり、また経済特区となって人口が急増しました。特に2010年に中国政府が「国際観光島」として大規模開発とノービザ・免税などによる観光産業の推進に乗り出し、別名「中国のハワイ」と言われるリゾート地となりました。 海南島のリゾートの中心は南部の三亜です。一面に美しいビーチが広がり、また世界的に有名なリゾートホテルも数多く点在します。マリンスポーツ、ゴルフ、スパ、そして海鮮料理を楽しむことができます。ここに来てビーチでのんびりすると中国にいることをすっかり忘れてしまいます。

 



第4回 [ 中国医薬品新事情 ]



4.1 はじめに
 中国の医薬品市場はこの5年間で2.5倍になり、2010年には約3.5兆円の規模にまで成長しています。これは日本に次いで世界第3位でこの成長が持続すると、2015年にはアメリカに次いで世界第2位になるという予測もあります。中国は「世界の工場」から「世界の市場」へとシフトし、今後は上海張江ファーマバレーを代表とする国家生物産業基地が「世界の研究開発センター」になると筆者は見ています。

 一方、中国の医薬品に関わる法規制は複雑でかつ頻繁に改正され、外国企業にとっては頭痛のタネとなっています。例えば、この2年間に次のような医薬品行政に関する大きな制度改革がなされました。

 1.3ヶ年医薬衛生体制改革
 2.薬価制度改革
 3.新GMP施行
 4.流通制度改革

 このような改革の目的はすべてに共通しており、「より安全で品質の良い医薬品や医療サービスをすべての国民に提供できるようにすること」にあります。それではこのような制度改革により、医薬品業界はどのように変化するのでしょうか。これらひとつひとつについて検証してみたいと思います。



4.2 3ヶ年医薬衛生体制改革
 中国の内閣にあたる国務院は2009年4月、『医薬衛生体制改革短期重点実施方案(2009-2011年)』を公布しました。同方案では、3年間で総額8500億元を投入し、抜本的な医療改革を実施していくことを明らかにしました。その内容は次の5項目です。

 1.基本医療保障制度の構築推進
 2.国家基本薬物制度の基本構築
 3.末端医療サービス体制の整備
 4.基本公共衛生サービスの均等化
 5.公立医院改革の推進

 本医療改革に総額8500億元(約11兆5000億円)という膨大な予算が組まれたことにより、医薬品市場から見た場合、直接的または間接的に好影響を与えることは容易に想像できます。「基本医療保障制度の構築推進」によって、すべての国民が適切な医療を受けられるようになり、その結果、受診、治療機会が増え、医薬品の処方の増加に繋がるからです。農村の労働者を対象とした新型農村合作医療制度および都市部労働者を対象とした都市従業員基本医療保険制度が充実し、さらに普及が進むと受診患者が増えるのは間違いありません。

 次に「国家基本薬物制度の基本構築」ですが、これは基本となる薬物の供給を保障し、出来るだけ多くの患者が治療を受けられるようにする制度です。2009年8月には国家基本薬物目録、同11月には国家基本医療保険薬品目録が公表されました。前者は各治療領域での基本薬物を制定しており、この目録に入ると保険償還を規定する基本医療保険薬品目録で償還の対象となるため、市場優位性を保つことができます。

 例え薬価が低く抑えられてもそれ以上の市場の伸びが期待できます。また政府補助政策の恩恵を受けることになり、企業は大きな利益を得ることになります。したがって、新薬メーカーは新薬承認取得後、国家基本医療保険目録への収載に向けた作業に全力を挙げて対応しなければなりません。また、公立病院改革により医薬品のマージンに大きく依存していた病院経営が医療技術サービスなど本来あるべき医療報酬などにより運営されるべきと定義付けしています。そうなれば適正な医薬品の流通や商取引きが行われ、健全な市場が形成されると考えます。


4.3 医薬品流通と市場改革、外資参入の推進
 2011年5月、中国の商務省が医薬品の流通改革に乗り出しました。大型卸や販売企業の育成、外資系企業の参入を推進し、流通網の近代化を図り、地方都市や農村部で良質の医薬品を低価格で浸透させるのが狙いです。中国では医薬品の卸や販売業者が乱立し、非効率な流通網が医療費を膨らませる要因にもなっていました。そこでこの流通改革により、医療費を抑制し、少子高齢化社会の到来に備える狙いもあります。

 具体的には「全国薬品流通業発展規則綱要」には年商1000億元(約1兆3000億円)を超える大型医薬品流通企業を2015年までに1~3社育成。業界再編を通じて上位100社の医薬品卸企業で全国シェア85%以上を、医薬品小売りチェーン上位100社で60%以上のシェアを占めるようにするとしています。

 また、外資系卸の参入を奨励し、国内企業への出資や流通網の整備が遅れている内陸部への進出を促すのが狙いです。さらには中国企業に対して株式市場や海外市場への進出を後押しし、世界的な医薬品調達・販売網の構築を目指すとしています。すでに中国医薬品卸大手の国葯集団や上海医薬集団は香港市場に上場しました。今後は製薬企業にとっていかに有力卸と強力なパートナーシップを構築するかが、売上拡大のカギを握ると言えるでしょう。


4.4 最高小売価格の値下げ
 中国の薬価行政を司る中国国家発展改革委員会は2010年11月、一部の単独定価医薬品の最高小売価格の値下げを開始する一方、いくつかの医薬品の単独定価資格を取り消し、新薬の値下げ方案を発布する」と通知しました。今回の値下げ幅はおよそ平均約15%になると予測されています。

 医薬品価格の調整は迅速に実行され、多くの国産医薬品が値下がりしました。307品目の基本薬物の中での国産医薬品の薬価下落率は約40%に達しました。委員会はさらに、これまで単独定価にあった外資輸入薬に対しても平均19%に達する値下げを行いました。

 医薬品薬価の値下げにより国内外の医薬品メーカー間の利益率の差が縮まり、将来的に海外メーカーは国内メーカーの市場占有率が同じ程度になるとの予測もあります。現在、中国の三級甲等医院で使用される医薬品のうち、7割以上が海外メーカー品で、3割弱が国産メーカー品と言われています。一方、二級以下のクラスの医院では、逆に国産メーカー品が圧倒的に多く使われているのが現状である。

 したがって、海外メーカーは地方都市の2級医院などこれまで手薄であった市場への参入、販売強化が成長のカギを握ると言えます。




 世界最大の商品卸市場をご存知でしょうか。それはです。医薬品関係の方には馴染みがないかもしれませんが、雑貨、衣料品などの商品の仕入れに関わる方はご存知の方も多いと思います。上海から車で4時半、今話題(?)の新幹線に乗ると2時間ちょっとです。世界中からバイヤーが買い付けにきます。その数は1日平均20万人とも言われています。もちろん、個人でも大丈夫です。

 店の数は2万店舗以上で雑貨、工具、電子機器、玩具、装飾品、化粧品、おもちゃ、意類、靴、小物雑貨はすべて調達できます。価格は通常、市価の20%~50%くらいでしょうか。もちろん、交渉次第ですから、簡単な中国語を駆使して値切るのは当然です。「(高い!安くしてくれる?)」は必須フレーズですね。

 値段の例で言うと通常の紳士靴、婦人靴は50~100元(650~1300円)、ラジコンヘリ60~150元(800~1800円)といった感じです。日本で買えばそれぞれ3000~6000円、2000~8000円くらいでしょうか。

 ここはほとんどの日本の100円ショップが買い付けにきたり、あるいは地元の製造会社に大量生産を委託したりすることでも有名です。興味のある方はぜひ、訪ねてみて下さい。

 
 


第3回 [ 製薬企業の世界戦略 ~大塚製薬と武田薬品の考察~ ]

          

3.1 はじめに
 激動の時代を迎えた世界の製薬企業はどのように生き残りを図ればよいのでしょうか。そして日本の製薬企業の取るべき道は?大型製品の特許切れ、ドラッグラグによる承認の遅れ、新薬の枯渇など現在、製薬企業を取り巻く環境は厳しい状況にあります。いや、これからの10年はなお一段と厳しくなることが予想され、製薬業界は大きな転換期を迎えていると言っても過言ではありません。

 研究開発は製薬企業にとって生命線であることは周知のことですが、研究開発コストは年々、膨大なものになりつつあります。例えば、外資系企業ではファイザーの86億ドルを筆頭にサノフィ・アベンティス67億ドル、グラクソ・スミスクライン65億ドル、日系ではトップの武田が4500億円、アステラス1590億円、第一三共1850億円といずれも巨額の研究開発費を投じているのです。これらの研究開発費は各社の売上の15~20%を占めており、他の産業のそれを圧倒しています。私が医薬業界に入った1978年頃は1つの新薬を開発するのに10年、100億円と言われていましたが、今は15年、500億円とも言われています。それにも関わらず、上市される新薬は年々、減少しているのが現状なのです。

 そこで各社はM&Aや海外市場開拓を加速させているわけです。すなわち、グローバル戦略の強化です。

 武田薬品は製薬業の発祥の地とも言える大阪道修町に産声を上げ、着実に成長してきた、言わば「老舗中の老舗」です。日本の製薬業界にあってはトップ企業として長らく君臨しています。1970年~80年代は新薬がなかなか出ず、冬の時代でしたが、米国での製品戦略および臨床開発の成功により、一気にその実力を花開かせたと言えます。前立腺がん治療薬のリュープリンを皮切りにタケプロン、ブロプレス、アクトスの製品を欧米市場に上市し、いずれも1000億円を超える大型製品となり、会社全体の売上の6割近くを占めるようになりました。

 一方、大塚製薬は徳島県鳴門市が発祥の地で当初は製塩の製造過程で出てくる無機化合物を製造販売していました。無機化合物は大手製薬メーカーに医薬品原料として販売していましたが、その後、これを輸液にして製造販売したのが医薬品製造の始まりです。その後、オロナイン軟膏、オロナミンC、ポカリスエットなどのヒット商品から得られた利益を新薬の研究開発に投入し、自社開発医薬品の成功へと繋がったのでした。大塚製薬の海外展開はまず、日本で独自に開発したプラスティックボトル入りの輸液をタイ、インドネシア、中国で製造販売を開始したのが最初です。その後、自社での新薬研究開発が実を結び、国内だけでなく欧米でも早い段階から開発に取り組みました。1980年にドイツフランクフルト、1985年には米国メリーランド州に臨床研究の拠点を置き、開発を進めたのでした。そして米国で自社開発3番目の製品となる統合失調症治療薬のアリピプラゾール(米国販売名「Abilify」)は世界の売上が4000億円近い超大型製品に成長し、会社のグローバル化にも大きく貢献しました。

 本コラムでは日本を代表し、海外事業に積極的に取り組む2つの製薬企業の対照的なグローバル戦略を検証し、今後の日本製薬企業の歩むべき道について考察してみたいと思います。


3.2 武田がアメリカで成功した背景とは
 武田のアメリカ進出は1985年、米国での自社製品販売を目的としてアボット社と合弁会社TAP社(Takeda Abbott Pharmaceutical Inc.)を設立したのが最初です。当初、本社サイドは日本で主力製品であった抗生物質を販売するという計画を持っていて、すでに現地工場は完成し、抗生物質の製造承認も取り、稼働目前でした。ところが、当時、本社から現地に赴任していた武田國男氏がこれに「待った」をかけたのでした。これを知った他の多くの現地駐在員は困惑していたそうですが、同氏と1名の部下と抗生物質の徹底的な市場調査、他社動向の分析を行い、やはり抗生物質では投資回収は難しいと判断しました。そこで同氏は前立腺がん治療薬「リュープリン」に切り替えるべきだと主張したそうです。当然、本社役員は反対でしたが、それを説き伏せて「リュープリン」の販売に至ったという経緯があります。

 この話は伝説的な意思決定として業界では有名な話ですが、この海外現地の事情をつぶさに察知し、信念を持って会社の方針を変えさせたことが、その後の同社のアメリカ事業大成功に繋がったものと思うのです。

 一方、大塚製薬は1970年代前半からタイやインドネシアで輸液の現地製造販売を始め、これが海外進出の始まりです。アメリカは当初、パロアルトやニューヨークにリエイゾンオフィスを設けていましたが、本格的に活動を開始したのは1985年、メリーランド臨床研究所を作ってからです。ちょうどその時期は自社の医薬品研究が実を結び、新薬が次々と臨床開発の段階に入っていました。同社は日米欧の3極同時開発の方針を打ち出し、グローバル開発を進めたのでした。私は1985年、フランクフルト研究所に駐在していましたが、そこでの臨床研究は主としてアメリカでの臨床開発をサポートするためのものでした。その後、アメリカの開発部隊は合成抗菌剤、抗血小板薬の開発を成功させ、上市しましたが、残念ながらビジネスとしては成功というところまで行きませんでした。ところが、米国で3番目の自社開発品であるアリピプラゾール(米国販売名Abilify)はBMSという強力なパートナーを得てメガドラッグとなったのです。粘り強く、アメリカで開発を続けてきた努力が実ったわけで「3度目の正直」と言えるかもしれません。



3.3 他を圧倒する大塚の中国・アジア事業展開
 大塚はアジアからグローバル展開を進めたとお話しましたが。1973年、タイにタイ大塚製薬を設立し、輸液の現地製造・販売を開始しました。その後、インドネシア、台湾、パキスタン、エジプト、ベトナムに次々と進出しています。

 中国においては1981年、外国企業として合弁第一号となった中国大塚製薬有限公司を天津に設立したのでした。改革開放が打ち出された直後の1978年、外資系企業で本格的に中国に進出する企業がない状況で中国の経済発展を予測し、英断を下した経営トップの意思決定は特筆に値すると言えます。

 2000年代に入ると同社はさらに中国事業を加速させ、2003年には持ち株会社に当たる投資公司を上海に設立し、さらなる事業展開を進めました。私が上海に駐在したのもこの時期で医薬品の他、飲料(ポカリスエット)や食品(ソイジョイ)などの消費者商品市場にも参入しています。

 同社は中国にグループとして既に20社以上の現地法人を設立し事業活動しています。日系企業の中では群を抜いているのではないでしょうか。

 一方、武田は大塚の進出から13年後の1994年、自社医薬品の製造工場設立・販売を目的として力生製薬と75:25の合弁企業、天津武田薬品有限公司を設立しました。武田の主力製品である前立腺がん治療薬「リュプーリン」、去痰剤「ダーゼン」、降圧剤「ブロプレス」、糖尿病治療剤「アクトス」などを販売しています。

 しかしながら、武田の場合は欧米での4つの大型製品の成功により、中国を含めたアジア事業は社内でのプライオリティが低かったものと考えられます。

 このことは本体売上の約60%が欧米市場から来ることを考えれば、当然であるとも言えます。ただ、主力製品の特許が次々と切れて欧米での売り上げが落ちることは避けられず、これをどのようにカバーするかが、今後の課題と言われています。

 そこで、同社は米国のミレニアム、スイスのナイコメッドを巨額の資金で買収し、製品パイプラインの拡充とグローバル市場での販売力の強化を図っています。また、中国において今年に入って、上海に投資公司、江蘇省泰州に新しい販売会社を設立し、中国事業強化を打ち出しています。新会社は輸入薬の販売および卸の許可証を取得し、製品パイプラインを強化し、またMRを900名体制に増強し、売上を伸ばす計画を立てています。計画を実現するためには開発スピードと承認取得、それに販売力がカギになると見られます。



3.4 経営トップのグローバル志向
 武田と大塚のグローバル戦略において注目すべきは経営トップのグローバルマインドが共通している点です。

 武田薬品の長谷川閑史社長、大塚ホールディングスの樋口達夫社長、大塚製薬の岩本太郎社長はいずれも米国駐在を長く経験し、欧米流の事業戦略を熟知され、また独自のグローバルマインドを持っておられます。この3名の方々とは一緒に仕事をさせて頂いたり、あるいはお会いさせて頂いたことがありますが、グローバル志向が極めて顕著であると感じました。筆者はこの3名の経営者の方々の足元にも及びませんが、米国、欧州、中国に駐在し、海外の実情を肌で感じ、ビジネスを体験しました。やはり、グローバル事業のマネジメントには海外に根を下ろし、身体で感じた経験は不可欠と考えています。また両社のグローバル化を推進された武田薬品の武田國男前会長、大塚ホールディングの大塚明彦会長はそれぞれの会社で海外戦略を迅速に決定され、今日のような超グローバル企業に育てられました。このご両名が自ら現場で陣頭指揮され、現地社員を指導された経営手法はグローバル化に不可欠と言えます。

 このような両社のグローバル戦略経営は他の製薬企業や他の産業にも相通じるものがあるのではないでしょうか。



【 中国のお勧めスポット③ 湖南省韶山(Shaoshan)】
 中華人民共和国建国の父である毛沢東の故郷が湖南省であることは有名ですが、この地を訪れた日本人は少ないのではないでしょうか。私は仕事で中南大学湘雅医院を訪問した際、運よく(?)、週末にかかったため、訪問しました。毛沢東が生まれ育った家は正確には湖南省湘潭県韶山村という池や田んぼに囲まれた農村にあります。省都の長沙から車で2時間くらいでしょうか。ここには生家の他、毛沢東博物館や巨大な像があり、全国から大勢の人がやってきます。生家の見学には行列が出来、30分~1時間、待たなければなりません。この小さな町には「毛」という名前の湖南料理店がいたるところにあります。博物館には幼少の頃から成人し共産党での活動、中国人民共和国建国など彼の生涯が展示品や写真と共に展示、解説してあり、中国の歴史が読み取れます。中国通の方には外せないスポットでしょう。

 
 


第2回 [ グローバル・アライアンスと成功事例(2011/9/20)
       「アリピプラゾール(Abilify)~425日間の記億~」 ]

          

1.1 プリンストンの夏
 1999年8月1日。ニュージャージー州プリンストン。湿度はそれほどでもないが、日差しがきつく外に出ると汗が吹く出すくらい暑かった。私はここのホテルで明日の契約交渉の打ち合わせをしていました。メンバーは私を含めて4人。私の上司であるライセンス担当常務、法務部の契約担当部長、それにシアトルにある法律事務所の顧問弁護士、そして筆者(当時、国際ライセンス部シニア・マネージャー)の4人です。私たちはブリストルマイヤーズ・スクイブ社(以下、BMS社)と統合失調症治療薬「アリピプラゾール」(米国販売名:Abilify)の最終交渉のため、BMS社の研究開発センターのあるこの地に乗り込んできたわけです。

 前日は朝から交渉を始めたものの、ある契約条項で平行線となり、30分という短い時間で交渉打ち切りとなってしまいました。契約交渉は粘り強くやることが鉄則ですが、さすがに交渉開始後30分で平行線、かつ歩み寄りの手がかりがなくなったことに一同、気落ちしてしまいました。我々は直ぐにホテルに戻り、カフェテリアで打開策を練って、明日の交渉で何とか前に進めたいと考えていました。この契約は通常のライセンス契約と異なり、共同開発契約、共同商業化契約、一部ライセンス契約という複雑な構造になっていた点や社内の諸事情も重なって、最初の契約交渉が始まってすでに1年を越えていました。そのため、我々は今回のプリンストン出張ですべての条件において何とかして契約合意に持っていきたいと考えていたのです。

 その後もBMS社と難解な交渉が続き、胃に穴が思いでしたが、7月29日~8月4日までの1週間をかけて最後の息詰まる交渉を乗り越え、BMS社と合意に達することが出来ました。最終日は交渉のあと、ホテルに戻り、全員、疲れが頂点に達していましたが、安堵感と同時にこの1年半に亘る契約交渉が合意に達し、BMS社という強いパートナーを得たことで、アリピプラゾールの成功を確信いたしました。その年の9月20日、ニューヨークにあるBMS社の本社ビルで調印式が取り行われ、この製品の成功への道がスタートを切ったのです。最初の契約交渉から調印まで実に435日間の道のりでした。



1.2 波乱の425日間
 アリピプラゾールは現在、世界の約70ケ国で販売され、売上規模は約3800億円近くに上ります。大塚製薬の2011年3月期の売上が約5000億円ですからこの製品が会社に取って如何に重要かが伺えると思います。この製品は日米欧で自社開発していましたが、1998年にBMSとのアライアンス話が浮上するまで、社内にはこのような大きな製品になることを予測していた人は誰もいませんでした。というのも当時の日本の統合失調症治療薬の市場が100億円程度だったからです。米国ではヤンセンのリスパダールやイーライ・リリーのオランザピンの売上は数千億円規模でしたが、日本の会社が米国で、しかも中枢系の医薬品の販売を単独でやる限り、大きな売り上げを挙げることは難しいとされていたからです。実際、当時のアメリカ子会社の販売計画はせいぜい数百億程度でした。

 BMS社との共同開発・共同商業化契約は険しい道のりで長い時間を要しました。会社が自社開発自社販売の方針から他社とのアライアンス方針に転換したのは1998年2月です。私はそれよりずっと前からこの製品をグローバル製品に育てるには巨額の資金力と強力な開発・販売力が求められ、しかるべきグローバル企業との提携は不可欠と考えていました。そこで本製品が欧米においてフェーズⅡが終了した1996年初頭から他社面談の際、相手先企業の財務状況、開発パイプライン、重点治療領域、過去のアライアンス実績、精神科領域の強さ、またこの製品に対する興味レベルなど詳細に情報収集しました。そしてアライアンスパートナー候補会社のリストを作成し、これをアップデイトし、いざというときのために準備していたのです。

 そして1998年2月、その決断は下ったのでした。国際ライセンス部では直ちに作成していた候補会社、10社を訪問し、興味の打診、我々の希望する基本的な契約スキームが受け入れ可能かどうか、などを確認しながら、交渉を開始しました。

 最終的にグローバル企業3社と秘密保持契約を結び、度重なる面談や交渉の結果、最も熱心でかつ熱意を示してくれたBMS社と契約することになりました。最終的にこの会社に決定した理由はこちらの多大な要求を受け入れてくれたことやこの製品に対する強い熱意でした。たとえば、BMS社との最初の面談時(秘密保持契約締結前)にCEOを含む約20名が顔を揃えました。初期のライセンス交渉は担当者レベルで面談するのが通常ですので、これには当方4名は驚くまかりでした。それだけ、興味を持っていて熱意も感じたものです。BMS社は本格的な契約交渉の過程でこの製品の臨床データがあまりにも少な過ぎる点を指摘しました。実際、大塚アメリカで行っていた試験は米国食品医薬品局(USFDA)に申請する最低限のものでした。

 そこで、BMS社は上市までに追加で40本近くの臨床試験を行い、そのために数百億円を投入してマーケティングのためのエビデンス構築を提案してくれました。このようなマーケティング手法は欧米のグローバル企業ならではのやり方で、承認を取っても製品が売れなければ意味がないという考え方です。多くの追加試験は上市までにエビデンスが得られ、今のような大型製品に成長したものと思っています。

 この契約交渉は本当に難航を極めました。すでに述べたように通常のライセンス契約と異なり、共同開発、共同商業化、一部はライセンス契約という複雑なスキームで、また契約自体も大型であった(BMS社として会社始まって以来の最大のディールでした)こともあり、1年半を要したわけです。一端は合意に達し、調印式まで決まっていたにも関わらず、それが白紙に戻るという事態もあって、ライセンシング担当者としては胃に穴が開く思いをしたものです。しかし、そのような苦労が今日のパートナーとの良好な関係を築き、世界に認知される大型製品にまで成長したことはそのアライアンス担当者として誇りに思っています。


 
 


1.3 グローバル・アライアンス
 医薬品の研究開発は製薬企業にとって生命線であることは言うまでもありません。特にこの5年~10年、大手企業の大型製品の特許切れが相次ぎ、これらの製品を抱える企業はあらゆる手段を講じて、売上の落ち込みをカバーしようとしています。ファイザーはこれまでワーナーランバートやファルマシア・アップジョンを買収しましたが、さらに昨年、ワイスを買収するなど、次々と大型M&Aを行い、規模を求めて生き残りを図っています。日系企業でも武田薬品はミレニアム社を8800億円、ナイコメッドを1兆1000億円という巨額で大型買収を行いました。

 各国厚生当局による新薬審査の厳密化、安全性評価の基準の高まりなどにより、世界的に新薬が出にくくなり、また研究開発コストも膨大なものになっていることも大型買収の背景にあると言えます。たとえば、製薬企業の研究開発費はファイザーの86億ドルを筆頭にサノフィ・アベンティス67億ドル、グラクソ・スミスクライン65億ドル、日系ではトップの武田が4500億円、アステラス1590億円、第一三共1850億円と各社売上の15~20%を占めています。

 それでも、新薬開発のハードルが高くなるにつれて研究開発投資は膨らむ一方で、成果物である新薬は逆に出にくくなる傾向になっており、年々、減少するという現象が起こっています。したがって、製薬企業は研究開発の投資効率を上げるため、ICHの概念も踏まえた形で国際共同試験を多く取り入れ、迅速にかつ効率良く臨床試験を実施し、各国申請に耐えうるデータの集積、またそれをベースに承認申請を行うというスキームが一般化してきています。

 以上のように大型製品の特許切れ、研究開発費の膨張、新薬パイプラインの欠乏などの理由により、他社からのライセンシングやM&Aが以前にも増して活発に行われるようになりました。医薬品は創製した企業がどのような会社であれ、またどの国であれ、世界市場を見据えたビジネス展開が不可欠です。そこで自ずとボーダーレスのアライアンスが盛んに行われるわけです。

 私は新薬開発を14年間経験したのち、縁があってライセンスの仕事に就きました。私に取ってライセンスの仕事は初めての経験であり、開発職とまったく異なり、新鮮でした。開発の仕事はある意味、狭く深く学ばなければなりません。医薬品の毒性学、薬理学、薬効評価、臨床試験の企画、統計解析、製造承認申請に関する薬事などは開発部員にとって不可欠の知識です。私のように工学系の人間にとってはほとんどが「一から勉強」という状況でした。

 一方、ライセンスの仕事はどうかというと、自社の中長期事業計画、研究開発方針、製品パイプライン、マーケティング戦略、生産計画、海外事業戦略、市場、価格、他社の開発動向などをまず、熟知しなければなりません。またライセンス契約の交渉には貿易、会計、税務、契約法などの知識も求められます。他社からの製品導入、他社への導出というライセンス業務には他社との情報交換も不可欠です。そのため、まず会社案内や会社資料を隅々まで読んで理解し、必要に応じて関連部門から情報を得て、会社のプレゼン資料を作成します。

 ライセンス案件はほとんどの場合、他社との情報交換から始まることが多く、したがって、他社のライセンス担当者との交流は最重要業務のひとつです。このいわゆる情報交換は国内、海外の製薬企業は言うに及ばず、バイオベンチャー、大学や政府の研究所、ベンチャーキャピタルまで数多くの団体、機関と行います。目的は明確で他社から導入の可能性がある製品情報を収集すること、逆に自社製品を他社へ導出する場合の興味の打診、導出先として相応しい会社かどうかを判断するための企業情報の収集です。

 ライセンス部門に異動して間もない頃は、自社の会社紹介(プレゼン)さえシドロモドロの状態で、とりわけ、海外の製薬企業との情報交換は頻繁で英語で行うこともあり、当初は英語にかなり苦労しました。英語力そのものの問題と技術的、専門的用語を覚えるのにはかなり悪戦苦闘したものです。昔の英語教科書、ビジネス英会話など通勤時や出張の際、随分、勉強しました。また、アメリカへ出張の際はBarnes & Nobleなどの本屋に立ち寄り、ビジネス書、契約法、交渉学などの本を買い漁って学習しました。大学受験以来、これほど勉強に打ち込んだのは久しぶりでした。ただ、外国企業との面談や情報交換も回を重ねる毎に慣れとコツを覚え、自信を持てるようになりました。

 1年も経つと1人で海外出張し、世界のグローバル企業と面談することが苦にならず、むしろ自信がついてきて、面談企業から色々な情報を得ることが逆に楽しくなってくるのです。私がライセンスの仕事を担当した1995年~2002年は丁度、大塚製薬の欧米での臨床開発が活発に行われていた時期で、有力製品の開発も最終段階に差し掛かっていました。そこで海外市場でのさらなる開発や販売パートナーが不可欠となり、他社との面談に拍車をかけたと言えます。アリピプラゾールの他、抗菌剤のグレパフロキサシンや抗血小板薬のシロシタゾールのアライアンスにも関わり、実戦経験できたことは運命的なものだったのかもしれません。

 このように大塚製薬のグローバル化戦略の真っ只中で関連する部門で重要な仕事をすることが出来たことは幸運だったと思いますし、また私自身の財産となりました。


【中国のお勧めスポット② 麗江(Li Jiang)】
 麗江は雲南省の北部に位置し、納西(ナシ)族の暮らす小さな街です。しかし、玉龍雪山から湧き出てくる清水を湛える玉泉公園、それに4000を超える民家が集中する麗江古城は中国の歴史を感じさせます。まわりには城壁がなく、伝説によれば、古代に木氏という領主がこの一帯を支配し”木”を城壁で囲むと“困”の字になるから嫌ったのだと言われています。
 以前は雲南とチベットを結ぶ交易路の要衝拠点で800年前から発展したそうです。そのため建物も商店としての機能を持ったものが多く、ほとんどが二階建て。有名な四方街を中心として、周囲へ向かって、麗江で生産した五花石で敷きつめられた石畳の路地が放射状の分布をしています。その間を城頭から三本の清らかな疎水が走り、明清時代の石のアーチ橋と石板の橋が約300、架かっています。民家はすべて木造のかわらぶきの家、古色豊かな古代建築の傑作です。1997年、世界文化遺産に登録されて、土地の少数民族である納西族が作り出した優れた文化財と言えます。


 
 



第1回 [ グローバルビジネスのきっかけ ](2011/9/6)



1.1 はじめに
 私は正直なところ、会社に入るまで海外に一度も行ったことがありませんでした。最初の海外渡航は新婚旅行でアメリカ西海岸でした。その時サンフランシスコのダウンタウン、ユニオンスクエアのオフィスビルをお洒落なスーツに身を包み、闊歩するビジネスマンがカッコ良くて一種の憧れを感じたものです。

 その時はまさか、自分がビジネスマンとして海外駐在したり、あるいは頻繁に海外出張することは想像もしていませんでした。しかし、その後、国際化という潮流もあって、新薬開発、国際ライセンス、アジア事業と職種は異なりますが、欧米、中国、アジアでの仕事に長く関わって行くことなったわけです。

 今、振り返るとこれまで1年以上の滞在3ヶ国、出張ベースでは45ヶ国を仕事で訪問したことになります。

 今回、情報機構の方からコラムのお誘いを受けたので自分自身のこれまでを振り返ると共に医薬品やヘルスケア製品に関わるグローバル・ビジネスの経験、教訓、楽しい思い出話、苦い体験、などを読者の方にお伝えしたいと思い、このコラム連載をお引き受けしました。

 主に海外臨床開発、海外事業開発&ライセンシング、中国事業に関わっておられる読者の方々に読んで頂き、少しでも参考になったと言って頂ければ本望です。

 また、ここのところをもう少し聞きたいとか、ここの話は間違っているとか、あるいはこの話は参考になったとか、何でも結構ですのでメール等でご意見をお寄せ頂ければ幸いです。

 コラムのトピックスは次のような内容で予定しております。トピックスは変更になる可能性もありますので予めご了承下さい。

 第1回 グローバル・ビジネスのきっかけと関わり
 第2回 グローバル・アライアンスと体験事例「アリピプラゾール(Abilify)」
 第3回 製薬企業の世界戦略~大塚製薬と武田薬品の考察~
 第4回 中国医薬品最新事情
 第5回 研究開発は「張江にあり」
 第6回 中国合弁企業第一号「中国大塚製薬」に学ぶ
 第7回 日系・外資系製薬の中国戦略
 第8回 中国ヘルスケア市場の成長の要因
 第9回 中国企業の急成長の秘密と海外進出
 第10回 中国ビジネスで思ふこと

 また、各回の最後の部分で私がこれまでに訪れたことのある中国のお勧めスポットを紹介して行きたいと思います。普通の観光スポットではなく、私が独断と偏見で「中国らしい場所として選んだ場所」です。

 中国ビジネスに関わる方は中国の方との会話のタネとして、または近くに行く機会があれば、ぜひ一度、足を運んで見て来て下さい。

 学生の頃、受験英語は好きでしたが英会話レベルゼロ、入社して最初は学術部で福岡支店勤務(約2年)、その後、大阪の新薬開発部に異動になりましたが、海外ビジネスとはほど遠いと思っていました。

 ところが、大塚製薬では当時、いち早く海外開発の方針を打ち出し、海外開発要員として若手の語学教育を始めました。それが入社3年目の1980年です。幸いにも当時、若手(?)開発部員であった私は早朝の英会話レッスンに参加することになりました。

 しかし、講師のアメリカ人は人懐っこい方で脱線することが多く、楽しい(?)レッスンでしたが、実践で使える英会話レベルにはとても覚束ない状況でした。その後、幸運にも開発部員の海外語学研修制度が導入され、私は第2年度に海外語学留学のチャンスが巡ってきたのです。こうして1984年の1年間、サンフランシスコ・ベイエリアの小さな町、Mountain Viewで下宿し、Foot Hill CollegeとStanford Universityで語学研修が始まりました。

 当時、最初に経験した苦い思い出はやはり、英会話レベルがあまりにも低かったことです。留学生が対象の英会話コースの初日、クラス分けの筆記試験がありました。仮のクラスは全部で40名ほどいたでしょうか。ドイツ人、スペイン人、中国人、インドネシア人、様々な国からの留学生です。幸か不幸か、日本人は私ひとりでした。

 クラス分け試験の翌日、授業が始まるとすぐ、先生が私の名前を呼びました、「Mr. Yamamoto!」。私はいきなり自分の名前が呼ばれたので「いいい、いえす!」。先生、「○×□△#&*?」。先生が何か質問しているようですが、全くチンプンカンプン。日本で習った「I beg your pardon?」を2回繰り返しましたが結局わからず仕舞い。後で同じクラスの中国人から先生が質問していた内容は「君は昨日の筆記試験でクラスでトップでしたので自己紹介をして下さい」とおっしゃったと教えられました。ああ、そうだったのかと思いつつ、同時にその中国人を含め、クラスの他の人たちのほとんどが先生の言うことを理解していたのだと思うと、思わず恥ずかしくなってしまいました。この筆記試験は文法、語彙などが主体なので受験英語に慣れている日本人にとってはそれほど難しいものではありません。ただ、ヒアリングとなるとまるっきりダメということで随分、気落ちしたものです。

 それに比べ他の国から来ている連中はヒアリング、会話はとてもうまく(少なくともその時はそのように思えた)、彼らの国での英語教育は会話中心で文法は二の次、三の次らしいのです。外国人とのコミュニケーションはまず会話であり、前置詞の使い方とか言葉の配列などには拘らない、通じればよい、という考え方です。この時、文法中心の日本の英語教育の問題点を改めて痛感しました。日本人の英語の先生から文法中心の、また受験の英語を学んでも実践ではまったく通用しないのです。

 この時、学んだ「外国語は外国人とコミュニケーションに用いるツールで語法など細かい文法は必要ない」ということは後に、ライセンスや中国ビジネスに関わった際、大きな教訓となりました。



1.2 ドイツ・フランクフルトでの医薬品開発
 さて、米国留学の後、日本に帰国して1ヶ月も経たないうちに、今度はドイツ・フランクフルト臨床研究所に行くよう辞令が出ました。いよいよ、海外でビジネスの実践です。

 日系の製薬企業が未だ、2~3社しか欧州での開発をやっていない中で大塚は1980年に既に欧州での医薬品開発の拠点をフランクフルトに開設していました。

 私が赴任した1985年には既に消化器系用薬、中枢系用薬、そして循環器系用薬の臨床フェーズⅠ~Ⅱaを進めていました。臨床試験はすべて自社で開発を行っていましたのでスタッフも多い時には50名程度いました。

 当時、欧州での開発を計画している他の日系製薬企業の方も随分、見学に来られました。ここでは試験計画書、ケースカード(今はケースレポートフォームと言いますが)、データ入力、解析、図表などすべてIBM/PCを使って作成していました。未だウィンドウズは出ていなかったので、DOS3.1で動かしていたので当初は随分、苦労しました。しかし、この時実践で経験した欧米スタイルの開発手法、医薬品や開発・薬事に関する英語の専門用語が後のライセンスの仕事で役立ったものです。



1.3 初めての新薬製造承認申請
 フランクフルトから帰国して、その後数年は再び新薬開発に籍を置き、日々、忙しい毎日を送っていました。

 丁度、担当していた循環器系薬剤のフェーズⅠがスタートしたところだったので多忙を極めていました。当時はGCPなどの規制はなく、1つのプロジェクトについてプロダクトマネージャー(PM)1名、アシスタントPM1名、内勤者1名の合計3名で1つの製品の臨床開発を行っていました。現在のように開発、モニタリング、データマネジメント、といったように専門業務に細分化されている訳ではなく、臨床試験の開発スケジュール、代表世話人の選定、治験施設の選定、交渉、製品概要書、試験計画書およびCRFの作成、研究会開催、モニタリング、データ入力、統計解析、報告書や製造承認申請書の作成まで、すべてを1つのプロジェクトチームでやらなければなりません。

 とりわけ、フェーズⅢから製造承認申請まではほとんど休日返上、毎晩残業(会社で昼ごはん、晩御飯を頂くのが常態化していた)という状態です。仕事が終わった後は、さらに夜食だ、ビール一杯ということで飲み会になり、午前様で帰宅ということもしばしばでした。このような生活が1年、2年続くと、さすがに身体にいいわけがありません。この頃は恐らくサラリーマン時代の中で最も会社に滞留する時間が長かったのではないでしょうか。私が担当したこの製品は決して大型新薬というわけではありませんでしたが、会社にとって大きな意味のある製品で、その後、厚生省(当時)から承認を得られた時には人には言いようのない達成感と満足感を味わうことが出来、3年に及ぶ残業生活も報われる気がしたものです。



1.4 ミシガン大学での留学研修
 この話題は一度、ぜひどこかで伝えたいと思っていたので取り上げました。私は新薬開発の後、1995年に国際ライセンス部に異動になりましたが、直ぐに上司の配慮でミシガン大学と一ツ橋大学が共同で行っていたGlobal Leadership Program(GLP)というグル―バルビジネスに関わるリーダーの研修プログラムに参加させて頂きました。これはとてもユニークな研修でミシガン大学のあるAnn Arborだけでなく、メーン州のハリケーン島での単独寝袋生活やチームワーク研修、新興国に10ヶ日間滞在し、新事業をどのように立ち上げるか、などグローバル視点に立って設計された画期的な研修プログラムでした。私はインドの電信事業チームになり、現地でどのように事業を立ち上げるかという課題で、10日間、ニューデリー、バンガロール、ムンバイの関連企業や役所を訪問し、いろいろなヒアリング調査を行いました。

 その後、ミシガン大学に戻ってチームで作成した事業計画を発表し合うという段取りでした。5週間という限られた期間での研修でしたが、このGLPで私は新興国で行うビジネスの基本、グローバルリーダーに求められるもの、外国人とのチームワーク形成など多くのこと学ぶことが出来、これもその後のライセンス業務、中国ビジネスに大いに生かすことが出来ました。ここで伝えたいことは私がいろいろな事を学んだということではなく、このプログラムでの新興国研修先がブラジル、ロシア、中国、インドであったことです。いわゆる「BRICs」です。

   一般に「BRICs」という言葉は投資銀行ゴールドマン・サックスのエコノミストであるジム・オニールによって書かれた投資家向けレポート『Building Better Global Economic BRICs』(2001年11月30日号)で初めて用いられ、世界中に広まったとされています。すなわち、私が参加したGLPは1995年ですが、この時ミシガン大学あるいは一ツ橋大学はゴールドマンより6年も前に既に新興4ケ国を予測していたことになります。この事実を最近になって知り、GLPを企画され、また、研修期間中、親身にご指導頂いたミシガン大学のNoel Tichy教授、一ツ橋大学の竹内弘高教授と米倉誠一郎教授に感謝すると共に敬意を払いたいと思います。



1.5 上海駐在
 中国事業との関わりはアジアアラブ事業部という部署に移ってからです。それまでは開発、ライセンスの仕事ではほとんどが欧米中心の会社とのお付き合いでしたが、アジア事業部に異動して一転、中国・アジアにどっぷり浸かることになりました。欧米各国もそうでしたが、アジアもそれまで行ったことのある国はお隣の韓国だけ。1993年に開催された韓国大田万博に行った程度で、その他のアジアは未知の世界でした。フィリピン、タイ、香港、インドネシア、ベトナムなどは毎年、2~3回、行ったでしょうか。ただ、アジア市場では何と言っても中国が最重点市場だったので2003年から上海に駐在することになりました。大塚製薬は1981年に外国企業として最初に中国進出を果たし、2003年から再度、中国に集中的に投資を始めた時期でした。

 私の中国への第一歩は丁度10年前の2002年、広州と上海の子会社訪問でした。2001年にWTOに加盟し、経済成長が加速し始めたころです。上海の地下鉄も1号線に続いて2号線も開通していたものの、東西南北の近場までしか開通していませんでした。今はそれぞれ延伸し、新線も開通して11路線に増えています。この10年間を見ていても、街の景色は大きく様変わりし、古い中国的な町並みが次々と新しいオフィスビルやマンションに建て替わり、少し、残念な気もします。当時住んでいたのは地下鉄2号線の江蘇路駅のすぐそばで会社は淮海中路にあったので地下鉄2号線で人民広場まで行き、そこで1号線に乗り換えて通勤していました。最初の頃は地下鉄はガラガラで楽々、座って行けましたが、今は座るどころか通勤時間帯は超満員。人民広場駅構内も拡張されましたが、人、人、人、って感じです。中国はどこまで成長し続けるのか、とても関心があります。


【中国のお勧めスポット① 周荘(Zhouzhuang)】
 上海は北京と違って、世界遺産とか名所旧跡はほとんどありません。観光スポットと言えるのは外灘の夜景と豫園をぶらりするくらいでしょうか。私のお勧めは上海郊外の周荘というところです。水郷の街で古い町並みが残っていて、とても情緒のある老街(laojie)で中世に繁栄した典型的な中国の水郷都市です。周荘は上海から約70km、高速道路を利用すると車で約1時間ちょっとのところにあります。日帰りツアーでもゆっくり散策できます。上海の高層ビル街からはとても想像できない、のどかで古い町並みは心が癒されます。900年の歴史を持ち、かつては江南の水運、商業の要衝として栄えた街です。現在の水路は生活にも使われています。上海万博以降、観光客が増えて趣が変わってきたのは残念ですが、それでも水路と古い町並みは一見に値しますのでぜひ、時間があれば足を延ばして頂きたいスポットです。


 
 


山本 先生のご紹介


【ご所属】
 山本 勝義
 株式会社グローバル・バイオパートナーズ 代表取締役
 経済産業省後援事業「ドリームゲートアドバイザーサービス」認定専門家


【略歴】
 1953年 福岡県に生まれる。
 1978年 九州大学工学部応用化学化卒業。 同年 大塚製薬㈱入社。福岡支店学術部勤務。
 1980年 新薬開発部にて医薬品の国内外の臨床開発に従事。
 1985年 フランクフルト臨床研究所にて循環器用薬、消化器用薬、統合失調症治療薬の臨床開発に関わる。
 1995年 国際ライセンス部にて導出、導入、およびアライアンスに従事。
       統合失調症治療薬「アリピプラゾール(Abilify)」のアライアンスの実務責任者として
       立案~BMS社との交渉~契約~アライアンスマネジメントを推進した。
       その他、GlaxoWellcome(現、GSK)、P&U(現、Pfizer)、
       TAP、Genzymeなどのグローバル企業とのアライアンスに関わる。
 2002年 国際アジアアラブ事業部にてアジア地区プロダクトマネージャー
 2003年 上海事務所駐在、その後、首席代表を務める。
 2009年 株式会社グローバル・バイオパートナーズを設立し、代表取締役に就任。

     日・米・欧・中での30年間におよぶグローバル事業経験をベースに現在、
     医薬品、ヘルスケア製品の海外事業企画、市場調査、F/S、海外開発、登録申請、
     現地企業とのアライアンスなどのコンサルティングを行っている。



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